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■ 中毒性日記 2003
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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年に何度か、墨をスルことがある。お客様にお送りするハガキの原稿の際に筆を取るのとは別に、学校以外では習ったことがない僕になぜか依頼があったりする。和食店のメニュー書きもしたし、表札も書いた。そして日曜日、遠い異国・オーストラリア人の男性に「桜」という字を書いていた。硯と墨と筆。文鎮はないが大袈裟に言えば、墨を磨るときにはいつも厳かな気持ちになる。

そもそも「習う」というものには昔から抵抗があった。日本の義務教育に於いては、その言葉は「セオリー」であったり「ルール」であったりするもので、大切なことではあるのだけれどその核心は、僕の子供心に伝わりはしなかった。いつか書いたかとは思うが、小学4年の時に京都とソビエト・キエフ市との姉妹交換作品として選ばれた「道」という字も、ただ手本の通りに書いただけの字だった。そこにオリジナリティはなく、それを先生から求められることもなかった。

塾を含む習い事は一切しなかった僕だが、そう言いながら今も役に立っていることはある。半紙に向かって正対して擦らなければ墨が均等に減らないこと、あまり濃い墨の色にしてしまうと書いた字で半紙が反り上がってしまうことだ。でも小学校の時に「理解」なんてしてなかったはずだし、なぜそうしなければならないか、その「意味」までは教えてもらえなかったとも思う。

筆耕という言葉があるように、婚礼の席次札や案内状に名前や住所を書く専門家がいるが、上手いが「巧くない」。例えば僕に書くことを依頼した人達は、上手を求めるのではなく、そこに投影される僕の「気」や「心」を求めたんだと思う。

何度も書ける字と、一度しか書けない字、
それが人生だとすれば、至極解りやすい。

だから僕は同じ字を二度と書けないし、書こうとする気もサラサラない。


※本日のダジャレー男爵・伝言板
【大畑大介より、フランスからメールが届く やっとPC環境が整ったらしい 練習グランドが−8度で、辺り一面銀世界だそうだ まぁいつもホームシックには掛からないあの性格だから、大介は順応性があるんだと思う 「また今年も面倒をかけることが多いと思いますが、よろしくお願いします」とは少々気になるが、彼とは今後また色々と繋がることだろう 覚悟しておく
(彼について知らない方は、今出ている「Number」でも読んでくださいな)】

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