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その店は神戸の繁華街をそれた、人通りの少ない場所にある。名前もなければ電話帳にも載っていない。隠れ家と言えば陳腐だが、家のようではある。今日もまた、 暇をもて余した店主が向かいの玉突き屋で14-1ラック(ストレートプール)に興じている。最初のお客様が来るまで張り紙をして彼は、いつもそうしていた。理由は、ずっと店に待っていて暗い空気を感じさせたくないから。そしてもう一つは玉撞きの世界にある、独特の空気が店のそれより好きだからである。いまいち撞点の定まらないキュー出しで玉を撞いていると、氷を作るときと同じく、手先でやることは気持ちに左右されるようだ。入らない先玉が、それを教えてくれた。自動ドアが開き、男が一人。「マスター、来たよ」
その男はいつものアイラモルトを流し込みながら一息ついた。「マスター、実は預かってもらいたいものがあるんだ」そういって男は、ハリバートンのジェラルミンケースをカウンターに置いた。カウンターを傷つけられてはたまらない。その顔を察してか、彼は「このカウンターを大理石にするくらの礼はするから」と、店主のいやがる口説き文句を言った。「午前0時に戻ってくる。もし来なければ、この封筒を開けてくれ。わかるようにしてある」アドベックの香りを残したグラス越しに男は出ていった。
人気(ひとけ)のないこのバーは、女性を口説くにはいいらしい。然し今ここにいるカップルは、どうもうまくいかないご様子。女性が先に帰って撃沈した男は、渋々夏目漱石を数枚置き夜のとばりに消えていった。時計は午前2時。今日は閉店にしよう。灯りを上げて清掃に入る。考えてみると彼は毎日のように洗い物をし、掃除もする。一端の主婦のようなものだ。「家はあんなに汚いのに…」小さく笑いながら彼は続ける。掃除を邪魔するかのごとく、銀色のゼロ・ハリバートンは、フロアに鎮座していた。閉店まで顔を見せることの無かった持ち主のジェラルミンと封筒。ペティナイフで開封すると、そこには一片の紙とカード、そして鍵が入っていた…。
つづく
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