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「コインを投げて決めよう」
平日の22時。神戸・三宮、人通りのまばらな一郭のバー。入り口の近くのカウンターに座る男二人、一人の年の頃は40歳代後半、カルティエの腕時計が似合うダンディイメージだ。もう一人は、エルメネジルド・ゼニアの仕立てと思しきセンスのいいスーツを着こなす紳士。時計の男はもうコインを人差し指に水平に置き、親指を添えている。
「数字が出ればショートカクテル、平等院鳳凰堂が出ればロングカクテルだ」エイブラハム・リンカーンの刻印のそれならまだしも、10円玉でコイントスとなると何ともしっくりこないものである。そもそもなぜこんな賭けが始まったのか。 それはこんな会話から始まった…。
「負けたら、あの女を誘うことにしよう」
ピーッというカードキーを通す電子音と共に一人の女性が入ってきた。カウンターの一番奥に座る。「今日の私をイメージしてカクテルを」と今時使わない言葉を言うが、違和感がないほどの知的な美人だ。「かしこまりました」とバーテンは答える。彼は何を作るのか、男達は固唾を飲んで見守っていた。
バーテンダーは冷蔵庫に予め冷やしていた10オンスグラスを取り出し、大きめの氷を2個入れる。念のため、そのままマドラーで何回転かステアする。これはドリンクを冷たいまま保つための儀式だ。そして液体は30ml分注がれる。メジャーカップは使わない。バーテンは液体の流れる時間で覚えていた…。
「マスター、それは何を入れたの?ロングカクテルだよね」時計の男は自分の答えを確認するように言う。「こちらは、ウシュクベリザーブの水割りでございます」「何だ、カクテルじゃなかったのか。二人ともハズレだ……」残念そうに言う。そこでその女性が話し始めた。
「水割りはカクテルよ。元々カクテルは『COCK TAIL』つまり船員達が、鳥の尾でお酒をかき混ぜたのがきっかけで出来た言葉。だからWHISKY AND WATERも立派なカクテル、シンプルだけれどとっても難しいのよ」 男性客は呆然と聞き入っている。
「でも、それすら知らない人達に私をギャンブルの対象にされたくないの」 その女性は全て知っていた。
「俺達も、そのカクテルをもらおうかな」男性はどちらからともなく、オーダーする。同じく、儀式を終えたグラスにはジガーほどの、少し濃いめに作られたWHISKY AND WATERがサーブされた。「旨い!」そして2杯目はクラッシュアイスで、3杯目は水の上からウイスキーを注いで分離させるフロートスタイルで、男達はウイスキーを飲み干し女性に一礼して店を後にした。
バーテンはその女性が、「私をイメージしてカクテルを」と言うときには必ず水割りを飲むこと、そして無類のスコッチ好きであることも、ずっと分かっていて酒を作っていた。こうして利口で気の強い女性に、男達は惑わされるものだ。
加納町の夜は、少し暖かくなった街と共に、また更けてゆく。 さて、この女性と私のこの後……「恋の賭け」のお話はいつかまた……。
第四話「ギャンブル」 完
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